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2050年近傍で、世界の自動車保有台数は21億台になると予測する人もいる。この数は、現在の3倍である。
21億台の自動車が世界で走り回ったとき、どのようなことが起きるかは、あまり想像したくない。大気汚染は今以上に深刻になり、CO2排出量は3倍となって地球温暖化はますます加速し、石油の争奪戦は現在の比ではなく、世界の政治的安定は極めて悪化し、鉱物資源も水もまったく不足する事態に陥るだろう。
自動車(交通)が21世紀にも存在できるとすれば、自動車保有台数の増大を適切な規模に止めておく必要がある。だが、事態はそれを許さない。
というのは、自動車の保有台数の増加は、主に開発途上国で起こる。高齢化、小子化で人口が減少する先進国では、これ以上自動車が増えることはない。しかし、地球が悲鳴を上げるから開発途上国のモータリゼーションは許さないというわけにはいかないからだ。
では、どうするか。この事態を大局的に考えれば、物流を含めた交通をどうするかということだろう。
鉄道、船、飛行機と自動車を組合せるというモーダル・シフト、それを可能にするパーク&ライド。あるいは現在の自動車の大きさを3分の1にする。CO2も大気汚染物資も出さず、石油も使わない自動車にする(燃料電池車)等の施策も考えられている。
ここで、問われるのは自動車の所有ということだ。自動車を個人の所有物とし、個人が使うことが改めて問われることになる。もちろん、自動車の個人的な使用とは道路の一部を一時期ではあるが個人が専有するということだから、この点も問われることになる。
このことは自動車に限らない。もっと広くモノを個人的に所有すること自体が根本的に問われ始めている。自動車の個人所有はその一部である。
ところで、自動車を欲しいと思う人は多い。では、自動車というモノが欲しいのだろうか、それとも自動車の自由に移動できる機能が欲しいのだろうか。おそらく、私たちはその両方が欲しいのだろう。
しかし、こんなことはいえないだろうか。自動車が普及し、だれでも自動車を所有できるようになり、一方で渋滞や大気汚染が深刻になると、自動車を持つことがステータスではなくなり、購入費用はもちろんのこと、駐車場探しや、維持管理がかえって面倒だと感じられるようになると。つまり、自動車を絶対に所有したいとは限らなくなるのではないかということだ。
ワシントンD.C.郊外でこんなことが起きたと伝えられた。雰囲気的には自動車の乗合だが、いわゆるカーシェアリングだ。それも自主的な。
米国のハイウエイは無料が原則だが、渋滞を緩和するために、二人乗り以上の場合は専用レーンを走れる。このレーンはたいてい空いているので渋滞を脇に見つつ、流れはスムーズで、速い。また、町に入れば駐車場探しで苦労する。そんなことで自動車通勤に支障をきたす人が多くなっていた。
そんな折り、ある広場に自動車を駐車し、そこから1台に乗り合って都心に向かう習慣が始まったという。
都心でどうしても自動車を使わなければならない人が、「だれか、いっしょに乗る人はいますか」と声をかける。自分一人では専用レーンを走れないが、だれか乗ってくれる人が入れば、早く都心に行けるからだ。すると、都心では使わない人が「私、乗ります」ということで、見ず知らずの人同士の、その場限りの自主的乗合、カーシェアリングが成立するのだという。
ちなみに、ドイツ、スイスでは、自動車生活協同組合的なカーシェアリングの加入者が増えている。レンタカーと同じような仕組みで自動車を借りることができる。
あるいは、将来のことだが、完全自動運転の自動車が発明されたとする。実は、現在でも実験的には成功しているのだが。すると、自動車の個人所有は崩壊するような気がする。
この自動運転車は、携帯電話、パソコンで呼ぶことができる。適正台数が存在すれば、呼ぶとすぐに来るだろう。自宅の前に、あるいはオフィスの前に、無人の自動車がスルスルと来て、止まる。乗り込んだら、プリペードカードを挿入し、行き先を音声あるいはキーボードで知らせる。目的地に着いたら、何もかまわずに降りる。すると、再び無人となって、次の呼び出し先に向かって走り去る。
それでも、自分専用の自動運転自動車が欲しい人はいるに違いない。豪華装備が満載の特別仕様車だ。しかし、全自動運転だから、最高出力が500馬力で、最大トルクが600Nmの高性能車であっても、その性能が威力を発揮するチャンスは皆無である。そうなると、自動車を個人所有する意味の一端は少なくとも消滅するだろう。
21億台の自動車が、人と地球と共存する方法があるかどうか。それは不明だが、ワシントンD.C.やスイス、ドイツのようなカーシェアリングは、それと鉄道、船、飛行機、バス等の公共交通機関を組み合わせるパーク&ライドと共に、自動車を生き延びさせる知恵として、今後はますます注目されることになるだろう。
自家用車は、半公共交通機関として社会になくてはならないインフラになるというのが、私の理想である。
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