乗り越えるべき不安はあったほうがいい。不安だからこそ、練習をしていきたいと思う。
世の中は計算できないことばかり。だからこそ、いろんなことを理解し、追求したいと考える。
今、治療のためコートを離れている森田。彼を支えているのは、“周りの人の存在”だ。
「運動神経はいまひとつ」だった森田少年

森田のペースに巻き込まれてしまった。のっけから「小さいころは、ひとりっ子コンプレックスだったんですよ!」とハイテンションに語る。とても、コンプレックスを抱えていた人間とは思えない勢いで。
森田がバレーボールを始めたのは、小学4年のとき。友達に誘われてクラブチームに加入した。「そのころは背も普通で、運動もできなかったんですよね」と昔を懐かしむように話し始めた。「器用に出来てしまう人って、努力しないでしょ? 少し高い壁があると乗り越えずに諦めてしまうんですよね。でも、ぼくには出来ないことがありすぎて、『みんなに追いつこう』と思って、毎日少しずつ努力してきた。だから、壁があっても“努力”して乗り越えられるようになったんだと思う」と自分を分析した。

練習を続けるうちに走るのも早くなり、バレーも上達した。加入していたバレーボールクラブは、地元奈良県で優勝を果たし全国大会にも出場。“ひとりっ子”でいることにコンプレックスに感じていた(?)森田は、笑いながら「バレーの仲間といることが、ぼくにとっては兄弟げんかをしているみたいなもんだったんでしょうね」と、幼少期をふり返る。バレーボールがあったから、特別な仲間がいたから、「いっぱいヤンチャもしたし、食べるのも早くなりましたよ。家ではおやつの取り合いなんて無かったですから」と、今は“ひとりっ子”で育ったことを『ものすっご、気に入っている』と教えてくれた。
仲間といることの心地よさを覚えた森田は、チームメイトと一緒に地元の中学へ。バレー部の練習は厳しく、監督に『もう辞めたいです』と心を固めて伝えたこともあった。「なのに監督は、『あほか、もうええから、はよ練習行ってこい!』ですよ。目も合わさずとても軽くね。ああ、辞められへんねんな、ってしぶしぶ練習に戻りましたけどね」。ヤンチャとバレーばかりしていた森田も、高校でバレーを続けるため受験のときだけは“少し”勉強をした結果、志望どおり、スポーツ活動が盛んな奈良県立添上高校に入学することになる。
バレーを続けることができてよかった

森田の高校生活は、寝て、起きて、食べて、バレーをし、クラスメイトにイタズラをする毎日。人気者の彼は学級委員長も務めた。中学までバレーでは二番手だったと自分を評する森田も、添上高校バレー部のキャプテン、エースに成長し、胸を張って一番手と言える立場に立った。“なかなか勝てない”チームを率いて、インターハイ県予選決勝まで進んだ。対戦相手は、中学で“一番手”だったチームメイトがキャプテンを務めるライバル校。「フルセットの末に落として、負けて。自分が無知たっだんですね。もっと考えたプレーができていれば」と森田は反省する。

監督の推薦により進学した近畿大学で、森田は秘めていたポテンシャルを発揮しはじめる。自分で考えてバレーが出来るようになった。「高校で持っていればよかった感覚なんだけど。ぼくは、大学に入ってからやっと解ってきたような気がする」と森田は言う。大学2年のときジュニア代表に選出され、スロヴァキアやポーランド、パキスタンなど、海外でバレーをする経験を積んだ。それでも「日本しか知らなかったぼくの好奇心がムクムクと膨らんだ。だけど、バレーに自信がついたわけでもない。だから、普通に就活してたんですよ」と森田は楽しそうに笑う。
自分のバレーをそれほど評価していなかった森田を、“客観的“に評価したのが、パナソニックだった。大学卒業後も関西でと、関西企業中心の就活中の森田に連絡が入る。「就活も最終面接まで行ってたんですけどね。“よし、バレーを続けよう!”って、直感ですよね。男が直感で何かを決めたらダメなケース多いんですけどね(笑)」と森田は語った。パンサーズからの誘いを、ご両親に電話で伝えると、「受話器の向こう側で、母親が『ヤッターっ』て喜んでましたから」これでよかったんだ、と森田は言った。

社会人になって、知識の吸収に人一倍取り組むようになった森田。読書をし、モノを書き、人と話す。人として生きるために何が大切か、じっくり考えるようになったという。日本代表選手を多く輩出するパナソニックにあって、ミドルブロッカーとして着実に成長した。2010年5月、黒鷲旗優勝を決めるスパイクを相手コートに打ち込んだのは森田。「23点目、24点目は違うメンバーにトスが上がっていたんですよね。最後のポイント、宇佐美さんの手からボールが離れてそのあとのゼロコンマ何秒かの瞬間、僕だけが『はい、決まった!』って思っていましたよ」と三冠達成の瞬間を昨日のように生き生きと描写してくれた。
周囲の人に支えられて、今にたどり着いた

2010年10月の椎間板ヘルニアによる手術とその後のリハビリ生活は、苦しさと悔しさが入り混じっていたに違いない。「周りから“焦るな、焦るな”といわれるんですけど、やっぱり焦ってしまう。判ってるんですよ、頭では。でも、ゲームを観れなかったときもあるんですよね。気分転換すら出来ないときがありましたね。今は少し落ち着いていますけど」という今も、まだリハビリの最中だ(2011年2月現在)。

森田は語る。「でも、ぼくがこうしてリハビリを続けていられるのは、やっぱり周りの人の支えがあるから。入院中も、ほんまに病室にはぎょうさん見舞いにきてくれました。先輩も後輩も含めていろんな人が来て、変なことやおもろいこといっぱいやらかして、『おまえら、いったいなんやねん!』と叫びたくなるぐらいだったんですけど、それが本当にありがたくて。だいぶうれしかったです」。
「不安と安心のバランスがあるとすれば、ぼくは9:1でもいい。安心はいらないし、乗り越えるべき不安はあったほうがいい。ぼくは不安だから練習したいと思うし、練習で打ち続けてきたスパイクの本数は誰にも負けない。スポーツは結果が全てだから」と言う森田。彼のプレーをコートで応援するには、もう少し時間がかかるのかもしれない。だけど、人間ウオッチングが大好きな森田は、小学生のときと変わらずチームメイトとヤンチャをし、チームのムードメーカーであり続ける。

見ている方も多いだろうが、森田はブログやTwitterで選手同士の会話やキャラクターを赤裸々に暴きだし、ファンにはたまらない情報発信源になっている。若手リーダーとしての存在感をここぞとばかりに発揮する森田は、「先輩たちが築きあげてきたパンサーズの“上も下もなく、良いチームであることだけを目指している今の環境”を後輩たちに引き継いでいきたい」と真面目な顔をして、パンサーズの将来を語った。
人が好き。書くことが好き。そしてバレーがなによりも好き。
森田にとってのバレーは、“顔を洗う”のと同じ日常生活。
最前線への復帰がとても待ち遠しい。





